「りんごがある。それをわたしが食べた。」
これは中立的だろうか。否。
「りんごがある。わたしによってそれは食べられた。」
これは? 否。
「りんごがある。わたしによってそれは囓られ、消化された。」
「わたしは」? 「ねこが」? 「リンゴを」? 「りんごを」? 「appleを」? 「Malus domesticaを」? 「食べた」? 「囓った」?
わたしたちは、常にことばと視点を選択しながら、物事を語っている。りんごを食べたのかもしれない。りんごは食べられたのかもしれない。わたしが食べたのかもしれない。わたしによって食べられたのかもしれない。「みかんを食べなかった」と書かなかった理由は? いぬが食べたものを書かなかった理由は?
中立的。「中立的じゃない」「偏っている」「主観的だ」といったことばがありふれている。だが。本当に「中立」なことばをわたしたちは発することはできない。情報の提示は、常に主観的だ。
「本日ねこちゃんがりんごを食べました」など、NHKで報道されることはない。その際わたしの歯がぐらついた感じがしたことも、たぶんそれは気のせいだったことも、汁がお気に入りの服についたことも、わたしにとってはとても重要な経験だったにもかかわらず。わたしのものがたりは、わたしにとっては重要だし、それはわたし以外の大多数にとっては、どうでもいいことであろう(むしろどうでもいいことであってほしい)。だが、無数のものがたりのなかから何かが選ばれ、「大切なこと」にされるとき、そこには隠れた「誰にとって」が想定されている。そして、その誰かのために、少なくとも、そうという名目でものがたりは再構築されいる。
わたしは「ニュース」というものがあまり好きではない。そこに想定されている「国民の関心」、そこに想定されている「国民の視点」、そこに隠されている「国民のものがたり」が、どうも鼻につく。それは世の出来事に無関心であれということではない。ただ、そこに「世の出来事」が、世界が、構築されていくことに、そのことに多くの人が無関心であることに、とてつもない嫌悪と恐怖を覚える。
わたしは今日りんごを食べた。あるりんごが今日わたしによって食べられた。そのときわたしはパーカーを着ていて、そのときりんごから汁が飛んだ。その(どの?)結果、パーカーが汚れた。それはわたしにとって大切なことだった、りんごなんて滅多に買わないし、その服はお気に入りのものだったから。その「わたしにとって大切なこと」の連続として、わたしは存在しているし、それを語ることで、わたしはあなたのなかに存在する。
中立の存在しないことは、それを目指すなということではかならずしもない。だけれども、より大切なのは、そこにある主観を大切にしていくこと。そして、その幸を、その毒を、忘れないこと。