とあるアクティビストのブログ記事が有料であることについて、茶々を入れた人がいたらしい。それに対して、「100円が払えなくて読めないのなら言及するのを諦めろ。アクセスできないのは、『ごく当たり前の理』だ。『無理筋の差別をねつ造』するな」といった旨の「反論」をしている方がいた。この「反論」は、どんな「文脈」や「発端」があったとしても許されない。
始めに断っておくと、「自分も生活があるから無料公開はできない」と言われたのなら、わたしは一切咎めなかっただろう。多くの人が、わたしも含めて、資本主義体制の中でそうやって生きている。本人や周りが不満だろうと、搾取性に気づいていようと、実際問題としてそれを避けて生活するのは難しい。だから無料でないことそれ自体を咎めるのは理不尽だと思うし、「無料にしろ」と迫るのはそれこそ「無理筋」だろう。「社会主義者/フェミニストなら、今すぐ自分の労働の成果をすべて無償化しろ」などとは誰も言わないし、主張していない。
だが、そういう社会であることは、決して「ごく当たり前の理」ではない。
今の社会において、「お金がない」、あるいは払えない理由は様々にある。性別や人種、身体の特性・特徴等によって、本来得られるべき賃金や支援を得られない人は多くいる。差別や抑圧、搾取等に苦しめられて就労できなかったり、不本意に休憩せざるを得ない人もいる。医療費等にお金を回す必要があり、自由に使える金銭が非常に制限されている人だっている。「たかが100円」でも、わたしにとっては一食分の金であるし、それだって常に余裕のあるものではない。こんな不条理で不平等な社会経済体制のなかで、金が払えなければ情報や娯楽へのアクセスを諦めねばならないのを「ごく当たり前の理」と言うのか。
お金がないのならアクセスできなくて「当然」である、すなわち、お金がある人だけがアクセスできてよいという価値基準は、少なくとも現状において、社会において周縁化されていない、いわゆる「マジョリティ」以外を一層排除するものでしかない。この体制から脱するのは現実問題としては困難ではあるものの、この価値基準を無批判に再生産することは、「買う」ために過酷な搾取さえ甘んじて受け入れ続けなければならない現状の正当化、そして深刻化にしか、つながらない。
人権に携わる人がその指摘を、たとえ不誠実な主張に対する反論として発せられたものであれ、「無理筋の差別をねつ造」などと言えることを、ましてや金がないなら「言及しなければいい」とまで言えることを、わたしは本気で許せない。それは投票に人頭税の支払いを求め、実質的に人種マイノリティの発言権を奪ってきたジム・クロウ時代の価値観といったいなにが違うのか。金のあることは、なにかへのアクセス権や発言権、あるいは社会運動へ参加する権利の根拠ではないし、無いことはこれらの権利を奪う理由にはならない。少なくとも、そうあるべきではない。
貧困者差別やレイシズム、エイブリズムなどといった思想は、ほかの軸でもマイノリティとして抑圧されている人を一層強く抑圧する。抑圧されれば自由に使える金はおろか、生活費すら一層減ってしまう。そのようななかで「金がないなら諦めろ、言及するな」と言うことは差別の助長以外のなにであるというのか。これらの抑圧構造を再生産し強化させながら謳う「女性の権利」は、自己矛盾以外のなにものでもない。そして、そのような主張の運動を展開する人たちは、わたしたちを抑圧する側の人間でしかない。少なくともわたしはそう思うし、こういった主張をする人たちを「フェミニスト」であるとも思えない。