わたしは、「フェミニズム」は家父長制、より正確にはalloシスヘテロ家父長制を打破するための運動だと考えている。Alloシスヘテロ家父長制とは、簡単にまとめるならば、alloシスヘテロ男性を中心とし、それ以外のノンバイナリー、女性、およびこれら以外の性別の人たちが周縁化された「家族」を形成することが期待され、この「家族」を一種のプロトタイプにすると同時に、それを維持し、それによる生殖を通じたこれの再生産を望ましいものとしていく社会構造のことだと考えている。
わたしたちの「敵」はalloシスヘテロ男性ではない。社会に蔓延る家父長制だ。勿論「男性」に権力、影響力、発言権が与えられがちなのは問題だし、その結果、女性を中心として多くの人が抑圧され、殺されている。その暴力はこの(alloシスヘテロ)家父長制社会の結果であると同時に、これを維持する<力>となっている。だが、すべての人はみなこの暴力的な構造に、被抑圧者かつ抑圧者として参加している。われわれはこの(alloシスヘテロ)家父長制社会に存在する以上、それに否応がなしに縛られ、そのフレームワークの中で生きることを強制されている(そうしないと殺される)。そして、時にはこれを打破するために強く強く行動しながらも、一定に、この価値観を再生産している(ここら辺の議論はわたしの「2023年2月のわたしのアナキズム宣言」と通じることを考えているし、同様、フーコー的な「権力」の分析に多分に影響されている)。
ここで、この構造の中で周縁化されている集団Fを、とりあえず「女性」と呼び、フェミニズムの主体であると言うことも可能だと思う。そして、Haslangerのように、フェミニズムにおける有益ameliorativeな「女性」の在り方を模索することも可能かもしれない。だけれども、それで女性でない人、すでに周縁化されているノンバイナリーや一部の男性を含んだ集団に「女性」という名を与えることが、わたしは十分にameliorativeであるとも思えない。
だから、わたしはフェミニズムの「主体」は全ての人だと言う。フェミニズムは「みんなのもの」だと言う。そして、alloシスヘテロの男性も、AMABのノンバイナリーも、もちろんAFABの男性もノンバイナリーも、フェミニズムに女性と同じように参加できると言う。だから、フェミニズムという運動において、男性がノンバイナリーや女性と等しく発言権を持つことは、なんの問題でもないと言う。そこにはいわゆるインセルやアンチフェミニストも含まれるだろう。だが、わたしは彼人らの思想を受け入れなければいけないとは一言も言ってないし、一つも思っていない。言っているのは、いわゆるインセルとされる人だってフェミニズムという運動において別に排除の対象ではないということだ。
それがもはや「フェミニズム」でないという意見も、一定に正しいのかもしれない。だけれども、大切なのは何が「フェミニズム」か、誰が「主体」かではなく、如何にしてこの家父長制を打破していくかではないのか。そのために「フェミニズム」を定義しなおしていくこと、そしてそのために「主体」を定義しなおしていくことこそ、ameliorativeな試みであるとわたしは思う。
hooks, bell. (2000). Feminism Is for Everybody: Passionate Politics. South End Pr.
Haslanger, S. (2000). Gender and Race: (What) Are They? (What) Do We Want Them to Be? Noûs, 34(1), 31–55. https://doi.org/10.1111/0029-4624.00201