つれづれなるままにカムアウト

アナキズム

わたしはずいぶん前から「アナキスト」と自らを呼んでいたが、はじめは「右派のアナキスト」だった。高校の頃にVoluntaryismを知り、それ以降ずっと、「無政府資本主義者(アナキャピ)」と自分の思想を表現していた。「左派アナキズム」というのがあるのも知ってはいたが、「古いアナキズム」でしかないと思っていた。とにかく「右派リバタリアン」のグループに積極的に参加し、ロスバードの著作やアイン・ランドをよく読んでいた。たまにでてくる彼人らのレイシズムやセクシズム、エイブリズム、ホモフォビアやトランスフォビアなどには辟易していたし、特にアメリカの右派「リバタリアン」コミュニティでその傾向が強くなっていったことや、ホッペ主義者の増加にはいらだちも覚えていたが、それでも、わたしは自分を「アナキャピ」であると思っていた。

アナキャピに代表される「右派アナキズム」はアナキズムではないと言う人は多い。わたしも今はこれに賛同する。本当のところ、当時のわたしも積極的な互助主義を前提とはしていたので厳密な意味での「アナキャピ」ではなかったのかもしれない。だけれども、少なくとも、資本主義を批判するという発想自体当時のわたしにはなかったという意味で、わたしはアナキストではなかった。

なにかが変わったのは、色々と心身の問題があって、自分の人生が思い通りに進まないだろうことに気づいた時だったと思う。その時、初めて、夢見ていたNYのマンションで生活し、好きな人とお風呂でシャンパンを開け、グアムの別荘で夏を過ごすような未来が、きっと永遠に手に入らないことに気づいた。そして、わたしは本当にそれを手に入れたかったのか、そもそもそれが「望ましい」と思っていたのはなぜか、そして、なぜそれを手に入れられる人と手に入れられない人がいるのか、真剣に考えるようになった。

この変化は、自分の当然と考えていた価値観を見直し、ずっと正しいと信じていた人や思想から距離を取るようになるきっかけとなった。これは、自分を表すためにつかってきたラベルを見直し、「敵」と信じていたコミュニティへ接近することであった。同時に、この変化は、ある種の連続性のあるものであった。自分がanarchistであると気づくには、資本主義もまた、国家制度と同じく暴力を正当化し、不平等を維持する権力装置という気づきが必要な「だけ」であったのだから。

いまのわたしの思想は、おそらく無政府共産主義者の影響を強く受けてはいるが、ただ小文字のanarchismであると認識している。それ以上のラベルを今は求めてはいないし、拒絶してもいる。

フェミニズム

わたしは(勿論クィア・インクルーシブな)フェミニズムに賛同している。そうでないアナキストは、自己矛盾してるとおもっている。そして、anarchistとして、“Anarchism”の「古典」とされてきた人たちのセクシズムやクィアフォビアに無批判であってはいけない。

SOGIE(SC)に関わる暴力も、国籍や人種に関わる暴力も、資本主義や国家体制に関わる暴力も、どれもわたしは無関係だとは一切思っていない。どの差別も、それが構造的なものであるなら、すべて絡み合い、維持し合い、相互作用し合うものであると考えている。それらは決して「独立した複数の軸」などで表されるものではない。そしてそれゆえに、ある人間が、ある状況下で経験する特権や抑圧、周縁化や中心化は、殆どの場合、一つまたは数個の名前のつけられる「〇〇差別」では説明しきれないと考えているこれは、同じ属性を持つ人たちの連帯を否定するものではない。むしろ、それの必要を強く主張する。そういった連帯のひとつに「フェミニズム」があるとわたしは考えている。

実際の所、本読んでるとアナキストと自身を一切形容していないフェミニストの方でもアナキズムの匂いを感じることもある。一方で、「アナキスト」や「アナーカ・フェミニスト」を名乗りつつ、トランスヘイトを繰り返したりシスジェンダー規範を再生産し続ける方は、無視できぬほどいる。そういった思想は、わたしの考えるanarchismに矛盾する。

今思えば、数年前のわたしはトランスフォビックなことをすごく言っていたと思う。ラディフェミとされる論者ばかり読んでいた時期があった。当時もあからさまな「トランスフォーブ」とではなかったが、「フェミニズムは女性のための運動ではなくて膣のある人のための運動」などと恥ずかしげもなく考えていたことはあった。

きっかけは、anarchistとしての自分の思想を見直したこともあった。だが、それ以上に、ちょうどその頃、トランスの方とオフラインで仲良くなったのは非常に大きかった。オフラインでも少しジェンダーに関わることをすることが増えたりもした。そんなこともあり、当時のtwitterアカウントでfeminismやQueerのことを積極的につぶやくようになった。やがて、それ専用のアカウントをTwitterとDiscordでつくった。紆余曲折あって数回生まれ変わった後、“neko”がうまれました。

 

わたしの今の発言が、当然差別性からフリーだとは思っていない。だが、alloシスヘテのアライの方含め、nekoとなってから仲良くなれた様々なフェミニスト、アナキスト、そしてアクティビストの方のことばを聞いたり、ともに話したり、それらを通じて考えたりして、わたしはいろいろなことを学べた。こうやって色々学び続け、数年後に今を振り返ったとき、「やっぱり、差別的なこといっぱい言ってたな」と気づけるようになってたいと思う。

そのためには、周縁化されている人たちの声をしっかりと聞いていかなければならない。“Anarchism”や“Feminism”の歴史に忘れられた、あるいは最初から記憶すらされなかった、しかし確実に社会を変え続けた多くのアナキストやフェミニストがいたことを、忘れてはいけない。周縁化されているということは、声が聞かれないということ。声が聞かれないということは、周縁化されているということ。だから、Twitter上でもオフラインでも、無視されてきた人たちの声をできるだけ拾って生きていきたい。フォロワーの少ない方たちと積極的にお話したり、拡声器になったりしたい。そもそも、anarchismもfeminismも、本来はそういう運動ではなかったか。そういう思いから、少し前にフォロワー数の少ない相互フォローの方を集めたリストもつくってみました。フォロワーが多い人のツイートは、積極的に拡散しなくても、みな反応してくれる。だから、わたしのツイートのいいねやRTより、声を無視されている人たちの声を拾い、その拡声器になってほしいです。

性別

そうやって、一つづつ、わたしは自分の思想や理想、アイデンティティを問い直されていった。考えていくうちに、ほかのひとのそれらについて少しでも理解しようとしていくうちに、ピースがそろっていくように、代わりのことばを提案されていった。それまで感じていた様々なことを説明するための表現が、少しづつわかるように、あるいはわからなくても大丈夫なことが、わかってきた。

 

わたしは、わたしの性別がわからない。

わたしは、ずっと自分のことを「女性」だと思っていた。同時に、ずいぶんと前から、何かが違うと違和感も持っていた。それは、たとえば病院の問診票で、性別欄にマルするのを忘れたふりをすることとして。「女子会」に呼ばれることが嫌で、断ってしまうこととして。「レディースセット」や「女性に人気」を頼まないこととして。「Ms. neko」と呼ばれるのは、ずいぶんと前からたまらなく嫌だった。nekoに関してはアカウントをつくった初期からany pronounsでやっていたが、これはオフラインでshe/herと呼ばれることが多いことを、なんとか「わたしはany pronounsだから」と納得させるための方便であると、どこかの段階で気づいていた。

誰かのいるトイレを避けるために、公衆トイレ自体避ける。必要な場合は、誰もいないところを探す。他の女性の前で裸を見せるのがすごく嫌。ほぼいつも、可能な限り「メンズ」の服とデニムを着ている。定期的に「男性」だと思われる。最近も「おにいさん」と言われた。「おねえさん」と訂正され、嫌な気分になった。身体違和は多分ないが、醜形恐怖症みたいなものは少しある。自分の声も本当に大嫌い(だから一切声出ししてない)。だから、容姿や服装などからジェンダリングされないnekoとしての「わたし」が、オフラインでの自分以上に「自分らしく」いられて、楽であった。まあ、でもたまに自分のこと「やっぱ、わたし可愛いのかな」ってちょっと思います、そういう日はみんなあると思いますが。

自分を男性だとは全く思わない。自分をトランスジェンダーであると表現するのも適切であると思わない。オフラインではごく一部の知り合い以外には「シス女性」と言っている。だが、ほんとうのところ「シス女性」であると今は思っていない。オンラインでも、「女性として」などとはこれまでも様々な場所で書いてきたが、いつもすこし首かしげながら書いている。まあ、女性の一種かもとも感じたりするときもありますが。

これらのことは、自分が「レズビアン」だからだと思ってた。だけれども、やっぱりそれだけではないと段々気づいていった。

自分の性別をわたし自身が理解している限りに言葉で表すなら、女性寄りのノンバイナリーかノンバイナリー寄りの女性とAの間のどこかで、しかもジェンダーフルイドな気がしている。だが、もしかしたらジェンダー・ノン近フォーミングなだけかもしれない。でも、しっくりくるのかというと、わからない。「名乗ってもいいの?」みたいな面も正直ある。今は「クエスチョニング」や「ノンバイナリー」と書いてみたり、挙句には「性別わかんないという性別」とか言ってみたり。どうにかして自分の性別に名前をつけたい、説明する言葉が欲しい、と思ってる一方で、「名前をつけられないということも、大切なことなんじゃない?」と思ったりもして、「性別がわからないという性別」だとか、大文字のQueerで納得してる部分もある。でもやっぱり悩んだりする。たまに、夜中に泣いたりするけど、次の日には「やっぱどうでもよくね」と思ったりもする。

指向

*以下、わたし自身の性的・恋愛的慕情の在り方の話をするため、「女性(?)のみが好き/性的に惹かれる女性(?)」の意味で、「ビアン」という語を使います。でも、バイセクシュアル含め、M-specのビアンもいます。Aジェンダーやノンバイナリーのビアンもいます。また、わたしは以下で「好き」という語を「性的関心を覚える」と区別することなく、使います。でも、AroやAceのビアンもいます。当然のことながらビアン・コミュニティの一部です。

自分の性別に悩むこと、すなわち、自分が「女性」であるかわからなくなっていくことは、自分を「レズビアン」と表現できなくなることへもつながった。nekoでも、それ以外の場所でも、ずっと自分のことを「ビアン」と、あるいは「レズ」と表現していたが、この違和感が募りやめた。

「女性」。そもそも、わたしが好きなのは、「女性」なのだろうか。ノンバイナリーの方にも惹かれることがあるので、「女性(寄り)」と拡張しても、それは変わらない。わたしがある人に性的欲求を感じるのは、その人が「女性(寄り)」であるからなのだろうか、あるいは、それを感じないのは、その人が「女性(寄り)」ではないからなのだろうか。ここで言う「女性」とは、そもそもなんなのだろうか。Adult human female? Femaleとは、具体的にどういった特徴のある人のことだろうか「性器」?——いや、それは違う。性的欲求も恋愛欲求も、わたしはその人の性器を確認する前から明確に感じるし、性器を確認する前後で変化する感情でもない。たとえ「例外」であっても、ペニスのある女性もXYの女性も卵子をつくらない女性も妊娠しない女性もいる以上、少なくともこれらは個体レベルに応用できる十分な「基準」ではない。「膣があるなら女です」——ならば、もし何らかの理由で膣を失えば、あるいはなくして生まれていたとしたら、わたしは「女」ではなくなるの?「妊娠できるなら女です」——妊娠の経験がない人は、ましてや自分のパートナーについて、どうやったら自分の性別を判断しているのだろう?  「XXだったら女です」?——そもそも自分自身の性染色体すら、わたしは知らない。「遺伝子」?——遺伝子検査を受けたのだろうか?。「骨格」?——笑わせないで。

くだらない思考実験だけれども、もしわたしたちが本当は身体など持っていなくて、実はすべての「人」は同じ真っ白な一つのキューブのなかに分散された存在でしかないときとわかったとき、わたしの「性別」は今となにか変わるのだろうか。あるいは、なぜ「neko」などというへんな名前のへんなアイコンのTwitter上の存在にも性別があると想定され、「nekoとかいう女」と言及されるのだろうか、「neko」の性別は、つねに画面のこちら側にいる「わたし」と同じ性別なのだろうか。

大体において、アニメのキャラクターは染色体ももたないし、描かれない限り性器も持たないのに、わたしはなぜあるキャラには惹かれて、あるキャラには全く惹かれないのだろうか。

そもそも、身体にあるのは様々な特徴でしかない。それらより「普通なら持ってる」はずの臓器や特徴の類型をつくりだしているのは、知識や言説でしかないのではないか。いずれにせよ、「ジェンダーアイデンティティ」を笑えるほど、「身体」は正確な基準たり得ない。もし言語化できる「基準」があるとしても、それは少なくとも別の所にある。

あるいはこう言う人もいるかもしれない、「ビアンか否かはセックスの仕方で決まる」——なんだそれ。シリコン製だろうと肉製だろうとのペニスを挿入し合うビアンだっているし、全く挿入のないビアンもいる。たまにふざけて挿入するビアンもいる。いわゆるタチネコがきれいに分かれているビアンもいれば、ぐちゃぐちゃなビアンもいる。BDSMを好むビアンも、嫌うビアンもいる。そもそも性行為のないビアンカップルもある。もちろん、ペニスを挿入しないシスへテカップルもいるし、男性側が挿入され、女性側が挿入するシスへテカップルもいる。

だいたい、わたしが惹かれる対象を「女性」と表すのは、正確なのだろうか。わたしはなぜ「女性」の一部しか好きにはならないのだろうか。また、なぜ一部のノンバイナリーの方にも惹かれるのだろうか?このとき、自分を「同性愛者」と表現することは不正確なばかりか、ミスジェンダリングの側面もあるではないか。

最近、こう考えている。結局、わたしが好きなのは「女性」ではなくて、あくまでいくつかの特徴や表現、しぐさなどでしかないのではないか。そして、それらの多くまたは殆どが、伝統的に「女性」と結び付けられてきただけでしかないのではないか。この感覚は、どんどんとはっきりとしてきている。すべての人の恋愛・性的指向をこう説明できるかはわからないけれど、少なくとも私に関しては、「同性愛者」でも「女性(寄りの人)が好き」でもなくて、こう表現するのがもっとも適切に思う。こう説明するのならば、結局の所、「性的指向」は、単に「どんな特徴へのフェティシズムを持っているか、そして、それらは伝統的にどの性別と結びつけられてきたか」でしかない。このとき、alloシスヘテ規範は、結局の所、「生殖と家族制度に対するフェティシズム」として再考される。戸籍上の同性間の婚姻や戸籍上の性別変更に関わる各条件、そもそも戸籍という制度自体、あるいは性別二元論や本質主義的な性別の理解、ホモフォビア、トランスフォビア、クィアフォビアやセックスワーカー差別も、「モテ」や「童貞」いじりも、その大部分はこの「フェティシズム」を押しつけ、再生産する装置の一部である。エイブリズムやゼノフォビアすらもわたしは関係があるように思う。ならば、Queerの運動がジェンダー・アイデンティティと性的/恋愛的指向との間に分断できるという主張も、フェミニズムがQueer運動とは無関係であるという主張も、「私は自分のパイを求めるだけ」も、一層無意味で逆効果に思えてくる。

わたしの理解する「性別」

「ある社会において、ある主体Sがジェンダーアイデンティティや、それに基づく表現、あるいはalloシスヘテ規範や生殖至上主義に基づくものも含めた社会的規範、それらと弁証法的につくり合うジェンダーという概念、そしてその一部、ないしは強くそれに影響されているセックスという概念、これらの総体であるセクシュアリティについて、そこから見いだされ、様々な人の行為や表現、特徴を解釈する際に用いる基準の一つとその社会で想定されていると想定されている類型の総体、また、ある一つまたは複数の類型への類縁性として、意識的ないしは無意識的な自覚を通じて理解され実践される、Sの自己同一性に関する認識の一部に与えられる名。これは、さまざまな言説や知識として社会の中に共有されて存在し、わたしたちは様々な行為の繰り返しを通じて、これを維持、再生産ないしは更新し続けている。」

でも、これだって、わたしが今の自分自身のそれを理解するために考えた「性別」の<説明>でしかないし、わたし以外の人にとっては、どうでもいいものでしかない。それよりも大事なのは、相手のアイデンティティを、たとえ自分には理解しきれなかったとしても、また、その根拠がなんであったとしても、大切にすることでしかない。

 

結局言いたかったこと

自分の性別や性的指向について、きちんと「カムアウト」したかったので、した。これまでずっと「非当事者」とか「マジョリティ」とか安易に言われていたの、結構気にしてました。特に「当事者」なのかずっと悩んでいる身として。わたしの今の性別は「よくわかんない」です。わたしの性的指向も「よくわかんない」です。でも、SOGIEにどうしても名前をつけるなら、Queerです。人称代名詞は前からと同じく、なんでもいいです。あなたが押しつけてください。呼びかけも、同じく。どれも間違えてると思いません。ただ、they/彼人、「nekoちゃん」呼びが「うれしい」です。これも、前から変わりません。

でも、それ以上に言いたかったことは、「性別」というものの、わけわかんなさ。その定義できなさ。そして、その「過程」が個人的であること。それの理解や認識の詳細は、その人のさまざまな経験や思想、価値観と結びついた、独特なものであること。ゆえに、多様性があること、それを認めてほしいこと。安易に「定義」などしないでほしいこと。そして、その人の「性別」を含むすべてのアイデンティティを大切にしてほしいこと。過度な一般化もせず、「素朴な疑問」なんかでぶん殴らないように、尊重してほしいこと。性別なんてわけんわかんないこと。でも、でも、それでもいいかもしれないこと。それを前提とした、会話をしてほしいこと。

もちろん、誰でも間違えてしまうことはある。だから、踏みにじってしまったときは、すぐに、理由など問わず、自分の「定義」を押しつけず、まずは謝って。

正直、どちらかと言うと、最近アライの人の表現に傷ついたり、嫌な思いしたりすること多い、それはわたし自身も自分のジェンダーやセクシャリティを考えることが増えたせいもあるのだと思うけれど。わたしは自分の「性別」を表すためには、既存の語を使う必要は必ずしもないとも思っている。よくネタにされる「木自認」や「鹿自認」、あるいは「わたしは戦闘ヘリ自認です」みたいなのだって、正直なことを言えば、わたしは「自分の性別を表すのに最も適切な表現は【木】だ」という人がいることに、なんのおかしさも感じない。そういうのを笑ったり、なんでも「ヘイターの創作」にしたり、「木は性別じゃありませーん」は、いくら「カウンター目的」でも少し違うと思う。問題は、今話題にされているのがアイデンティティである、という点が共有できていない、ただそれだけだと思う。

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